Bela音楽史パソコン史

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長々とつまらない文章を書いてしまいました。Belaのことを詳しく知りたい人は、フルバージョンを、読むのが面倒な人はシンプルバージョンを読んでください。

Belaの音楽史 フルバージョン

Belaの音楽史 シンプルバージョン

Belaのパソコン史 フルバージョン

Belaのパソコン史 シンプルバージョン


  楽史 フルバージョン  

小学校以前

よく憶えてないが、多分童謡等を歌っていたんだと思う。また、当時流行っていた山本リンダのモノマネをしていたらしい。

小学校低学年

両親の影響で、歌謡番組、特に演歌を聞いてた。この頃は、音楽といえば、学校の音楽の時間と演歌しか周りになかったといえる。

小学校高学年

世間の小学生同様、アニメソングに夢中。「キカイダー」、「マジンガーゼット」、「宇宙戦艦ヤマト」 etc.
特に宇宙戦艦ヤマトの音楽は私の一つの音楽ルーツ。今でも聞いてる。一方三味線の師匠の母親に騙されて、三味線を弾かされる。

中学校

音楽教師が、今から考えればとんでもない人物で、教科書など全く使用せず、「反戦フォーク」や「社会的なフォーク」ばかり教えられた。「二度とゆるすまじ原爆をー」とか「イムジン河 水清くー」とか普通授業で歌わんぞ。この時の音楽教師がその後の私の音楽に大きな影響を与えるとは当時は夢にも思ってなかった。嫌いな教師だったので。

一方、当時、アリスの「冬の稲妻」が大ヒット、Belaも世間の例に漏れず姉のギターを借りて練習を始めた。当時は寝てはアリス、醒めてはギターと言う状態。一種の熱病だろう。

高校

本格的に音楽活動に乗り出したBelaは、高校の入学祝とお年玉をためて念願のギターを購入。フォーク系のクラブに入りバンドを結成。BelaとJ君ともう一人で音楽活動開始。主にアリスとさだまさしのコピー中心。
楽器もギターに加え、ベース、ドラムなどを習得。

一方、先輩W氏の影響でブルーグラスブルースというジャンルを知り、またKY君の影響で反戦フォークなどにも目覚める。(中学の時に習った音楽が反戦フォークであることはこの時知った)
また兄のレコード棚にあったアメリカンフォークの先駈けキングストントリオの2毎組みアルバムは、全曲歌詞を暗記するまで聞いた。
このころ、Belaの音楽センスの基礎が出来たといえる。
この頃は、真剣にシンガーソングライターになることを夢見ていた。

大学

フォークソングクラブに入部したが、ここは実はフォークとは名ばかりのロック、ポップスバンドばかり。ここで、意固地にフォークを続ける。先輩方、他大学の連中の演奏を聞き、プロになる夢が如何に無謀だったかを思い知る。
この頃、虐げられた恨みから、ロック拒否症にかかり、エレキギターに嫌悪を感じる。ブルーグラスに関する研究を続ける一方、フォークバンドを結成するが、1年たたず解散。他大学へ行っていたブルースギターの名手W先輩を誘ってブルースバンドを結成。精力的に活動するが、音楽的に行き詰まる。打開のため、フュージョン系ベーシスト、Mr.Bass氏を無理やり勧誘。ようやく自分たちのスタイルを確立する。
また、クラブの指令で、某女子短大のギター、ベースのコーチとして派遣され、2年間の刑期中にY子さん(妻)に見初められる

社会人

卒業後、1度だけライブをするが、Belaが姫路に住んだためバンド活動は休眠状態。
突然、Belaはボーナスを全部つぎ込んでシンセを購入、DTMで作曲活動を開始。曲想はBela曰く「ポールモーリアよりポップで、スクエアより重厚な、オーケストラとフュージョンの中間」を目指し、高校から続いたアコースティック路線から転向する。
これは、「ボーカル中心のフォーク、ブルーグラスよりDTMでやり易い」から。
キーボードなど全く弾けないBelaとしては大きな決断だが、一人で音楽をするにはこれしか方法がなかったから。(未だに右手でしか弾けません。でもコンピュータのおかげで演奏できます。技術革新のお陰ですね)
Mr.Bass氏とツインキーボードでライブをやって以来、ライブ活動からは遠ざかっている。

また、新婚旅行で行った沖縄に感動し、飛行機の中で聞いた上々台風の「愛よりも青い海」の影響で沖縄サウンドにハマる。
ある人に「沖縄のバンドを最近聞いてます」というと、「スピードですか?」とぬかしおった。「沖縄の音楽」と「沖縄出身者の音楽」は全く別だ!

というわけで、Belaの音楽の歴史を長々と書いてしまいました。Belaの音楽趣味は大分偏ってますが、歴史をたどると実に様々な人々に影響されていることが分かります。

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  音楽史 シンプルバージョン  

 

小学校以前

童謡等を聞く。山本リンダの物真似をしていたらしい。

小学校

アニメソング、演歌を聞いていた。演歌は勿論両親の影響。
母親が三味線の師匠なので、無理矢理三味線を弾かされる。

中学校

音楽教師がとんでもないやつで、「反戦歌」ばかり習った。一方、アリスに傾倒し、ギターを始める

高校

フォークソング部に入部し、バンド結成。主にアリスのコピー。ボーカル、ギターの他、ベース、ドラムも習得。
その一方で、本当のフォークソング(アメリカ、日本)の研究を進める。PPM、ブラザースフォー、キングストントリオ、高石友也、はしだのりひこ、岡林信康など。

大学

フォークソング系クラブに入部したが、ロック、ポップスばかり。意固地にフォーク系バンドを結成したが、一年で解散。高校の先輩で天才ブルースギター W氏を誘いブルースバンドを結成。主に憂歌団のコピー。その後スーパーベーシスト Mr.Bass氏が加入。精力的にライブを行った。
その一方で、ブルーグラスの研究を進め、100枚以上のアルバムをそろえる。

また、某女子短大のギター、ベースのコーチとして派遣される。

社会人

突如、シンセを購入し、DTMで作曲を始める。「ポールモーリアよりポップでスクエアより重厚なサウンド」なる正体不明の音楽を目指す。何度かコンテストに応募したが、全て落選。(しかし、Mr.Bass氏とのライブは結構好評だった。)

また、最近は沖縄サウンドにも興味を持っているらしい。

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  パソコン史 フルバージョン  

 中学校以前

コンピュータとは、アニメや映画に出てくる「凄いもの」というイメージがあり、全く自分には関係ないと思っていた。

高校

兄がPC8001を購入して夜中にゴソゴソしているのを見て、不思議に思っていた。
Belaには何が面白いか理解不能
当時、パソコンの黎明期で、受験では情報関係は医学部の次に難易度が高く、劣等生のBelaは化学系にしたため、全く無関係。

大学

大学の情報関係の学科の友人は、皆ソフトハウス等でバイトをし、滅茶苦茶羽振りがよかった。月収20−30万はザラ。もっともパチンコで月収50万という奴もいたが。
ところが、授業で無理やりコンピュータをやらされる。今から思えばUNIXの汎用機でフォートランをやったのだが、半年の授業が終了すると全て忘れた

やがて研究室に入ると、数台のパソコン(PC−98)が有り、学会発表の原稿作成に無理やり使わされる。使用したのは新松やワードスターというワープロで、Belaにとっては電源を入れてディスクを入れると、立ち上がる摩訶不思議な箱であった。

最も不思議だったのは、新松とワードスターの文書が同じディスクに保存できること。「MS−DOSがうんたらかんたら」と説明されても理解できず、不思議だった。
友人が黒い画面で何やら英語のコマンドを打つと何か表示され、こいつはコンピュータの天才だと思った。(今から思えば単なるdirコマンドであった)

社会人の初めごろ

入社すると、ワープロや表計算で報告書を書かされ、便利だなと思い始める。また実験装置の制御にもパソコンが使われており、同じパソコンでなぜいろんな事が出来るか不思議だった。
そのころシンセを購入し、作曲活動を開始した。シンセ系の雑誌を読むと、パソコンが高性能シーケンサになることを知り、パソコンに興味を示す

Belaのパソコン革命

ある日、友人J君の引越しを手伝ったが、荷物を搬入すると、J君は最初にパソコンを組み立て始め、Belaに幾つかの美少女ゲームをデモしてくれた。(これが運の尽き)
J君からエルフの「ぴんきいぽんきい」を借りたBelaは、翌日から会社で熱中。その冬のボーナスでついにパソコンやシーケンサソフトを購入。
機種は、EPSON PC-286UX (80286-12MHz)

Jから借りたあるソフトが、MS−DOSとMOUSE.SYSを組み込む必要が有ったが、MS−DOSの組み込みしかJが教えてくれなかったので、全く動かず。2週間悪戦苦闘し、動かすことに成功。この時、MS−DOSの事をかなり詳しく勉強した。

そのうち、バッチファイルを憶え、一々リセットをせずとも様々なソフトを起動出来ることを習得し、ハードディスクを購入。一週間で壊れる(当然保証扱い)。この時、色々勉強した。

プログラミング開始

大学でのフォートラン以来、パソコン=プログラミンという強迫観念があったことと、バッチファイルでは限界があったので、Quick−CでC言語を勉強し始める。
C言語は一時真剣に勉強した。その頃、会社で反応解析プログラムを作成し、上司にお褒めを頂いた。(いまだにBelaの最大の実績だと言われる・・・)

いよいよwindowsへ

世間ではWin3.1の時代だと騒がれ、パソコン買い替え。機種はNEC PC-9821As/U2。dirコマンドの速さに驚く。このころBela息子1号誕生。
このころが美少女ゲームの絶頂だった。
Win時代になり、Cに挫け、Visual Basicに転向するが、Cプログラマのメンツとして、今まで敵視してきたBasicの軍門に下るのが悔しかった。

ようやくVisual Basicをマスターし、その限界も分かった頃、Delphi登場。また1からPascalを勉強するはめに。

そしてWindows95へ

時代に勝てず拒否しつづけたWin95を導入。ぼちぼち486マシンの限界を感じる。プリンタ(EPSON PM700C)を購入し、年賀状作成をパソコンに移管。それまではY子さんがプリントゴッコで作成していた

ついに遅さに我慢できず、パソコンから遠ざかる。Bela息子2号が生まれたこと、引越ししてパソコン部屋に冷暖房がなくなったことも原因。ただ、日経バイトの購読は続け、世間動向には注意。

第二の革命 AT互換機&インターネットの世界へ

我慢も限度となり、パソコン新調。機種はVIP-P2-400MP。清く正しいPC98文化圏から、ヤクザなAT互換機の世界へと禁断の一歩を踏み出す。同時に拒否していた、インターネットを始める。
セカンドアドレスを取る必要から、ホームページをアップするようになるとは。
自分の性格から、はまるのは目に見えていたのに。今後は泥沼化が予想される。

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パソコンは麻薬だ

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